リヒテル

先週、韓国ドラマのことを書いた際、紹介した「リヒテル」という本を読んでみました。有名なピアニストで、何回か実演も聴いたことがありますので、興味があって買ってあったのですが、いつのまにか「積ん読」になっておりました。

読んで驚いたことに、リヒテルの父親はドイツ系だったため、第二次世界大戦後のスターリンの粛清時代に銃殺されましたが、それを密告したのはなんと、母親が情を通じていた同じドイツ系の男性で、リヒテル音楽学校時代(15才くらいの頃)の理論の先生だったそうです。リヒテルのお母さんはその男性と再婚しましたので、リヒテルは父親が亡くなった後、19年間も母親と音信不通だったとか。強烈な家族関係ですね。

リヒテルが19才でモスクワ音楽院に入学した頃は家族がなかったことになります。大学時代の恩師、ネイガウス教授の家に入り浸り、時にはピアノの下で寝たそうです。

リヒテルのやや自閉的な風貌、演奏態度はこんな成育歴と関係していたに違いありません。家族の温かい愛に支えられて育った辻井伸之君とは大違いで、出てくる音楽もまた違います。

1960年にアメリカデビューした際の、カーネギーホールでの連続リサイタルは未だに語り草で、最近になって、ソニーから全ての音源がCDになってまとめられています

そのうちの一つの演奏会で母親(と敵の義理父)と19年ぶりに再会したそうです。なんとドラマチックなことか。その日の演奏は聞くに堪えないほどの出来で、決して発売しないようにと言ったそうです。これは想像ですが、カーネギーホール開館125周年記念セットに入っている、リヒテルの1960年12月23日の演奏会がこれだったのではないでしょうか。リヒテルはここで、ベートーベンのテンペストソナタの3楽章の最後でコーダに入れなくなり、堂々巡りになったそうです。リヒテルの本では、「一連の最後の演奏会のあと、音楽に無関心な母親の親戚たちと食事をしたのが苦痛だった」と書かれています。

私はリヒテルの演奏を評判ほどは好きではありません。何度か通った実演でも、「すごい音量」とか「間違えない技術」には感心したものの、あまり心に響かなかったのです。ところが1960年の連続リサイタルの音源は素晴らしさのあまり涙が出そうになります。

この本の後半はリヒテルが演奏会や録音について自分自身のものも含め感想を述べた膨大なノートがそのまま載ってます。リヒテルが評価した指揮者はまずフルトベングラー、ついでカルロス クライバーのようです。何度が共演したカラヤンは嫌いみたいです。

リヒテルを尊敬していたグールドについても、「奇をてらった演奏」とにべもありません。ホロビッツは「年を取りすぎたのか、汚い音で誇張が目立つ。こんな演奏でもカーネギーホールの聴衆は沸いた」とくそみそです。ワイセンベルグについて「バッハを演奏していて指が走ってしまう欠点があるが、この人には直すことは無理だろう」とのこと。ポリーニショパンは「フォルテばかり。優雅さのかけらもない」と。

一方お気に入りだったのは比較的若手のピアニストたちで、ハンガリーゾルタン コチシュやロシアのアンドレイ ガブリロフなど。この二人は誰が見ても上手ですが、その割に世界的知名度が低いのが持ち上げる動機になったのではないでしょうか。コチシュは指揮者としても活躍していましたが、残念ながらこの11月にお亡くなりになりました。コチシュはラフマニノフのヴォカリーズの素晴らしいピアノ用編曲を残しています。

リヒテルは1970年代からは耳鳴りと聴音障害が出て、楽譜を見ながらでないと弾けなかったようです。この頃からあとの膨大な録音はあまりお薦めできません。

ロヴィツキと共演したラフマニノフの2番のコンチェルト(1960年前後のDGセッション録音)は後から何度も聴きなおして、「良かった」と感想を述べています。やっぱり、暗譜で自由に感情を羽ばたかせながら弾いたころの録音のほうがよほど素晴らしいです。1960年代以前の古い録音です。

最も評価した指揮者のクライバーとの唯一の共演はドボルザークのピアノ協奏曲です。この曲はピアノパートが難しいことで有名です。リヒテルですら習得に3か月もかかったと正直に書いています。

ところが、残念ながら、このレコードの出来がいまいちだったと何度も聴きなおしては嘆いています。よほど悔しかったのでしょう。

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