ベートーベン ピアノソナタ 全曲楽譜の比較

ピアノの新約聖書とも称されるベートーベンのピアノソナタ全32曲。現代の演奏会シーンにおいても、ショパンとともにベートーベンが演目に上がることが多いです。日本の江戸時代に作曲されたことを思えば、そのすごさがわかります。

とはいえ、現代のピアノ(ほぼスタインウェイ)で演奏するためには、楽譜の研究が欠かせません。まず、ベートーベン自身はスタインウェイを知らず、今でいうフォルテピアノのために作曲していること。スタインウェイと比べると、鍵盤の幅がやや狭く、タッチも浅く、強弱の幅が狭い上、ペダルの機能も全く異なっていました。

ベートーベンが記譜した通りをほぼ再現したものを「Urtext、ウルテキスト、原典版」と称します。例えば、もっともポピュラーな独ヘンレ社のソナタ全集(ハンゼン編集)がその代表です。

ヘンレ版を見ると、右ペダル(ダンパーペダル)の指示がほとんどありません。楽譜通りだと、始終右ペダル無しで演奏することになりますが、実際的ではありません。ソナタ14番「月光」の一楽章で、「全編ダンパー無しで」との指示があるくらいですから、ベートーベンは今の右ペダルを多用していたと思われます。左ペダル(弱音ペダル)の指示は全くありません。現代の演奏シーン、つまりスタインウェイピアノの表現力を最大限に生かす演奏をするためには、左右のペダル及びトリルの弾き方を自分で工夫する必要が出てきます。

プロの演奏会を見聞するとすぐに判りますが、プロは右ペダル、左ペダルを実に有効的に始終使って演奏しています。

としますと、原典版の楽譜は参照するにはふさわしいとしても、実用性では劣るということになります。では、実用性で優れた楽譜はどれでしょうか。

その前に、原典版とされる楽譜はもう一つ、ペータース版があります。20世紀の名ピアニスト、クラウディオ アラウが編集したもので、ベートーベンが指示しなかったuna corda(弱音ペダル)を細かく指示しているのと、独特の効率的な運指方法、また、トリルの始め方に大きな特長があります。

また、ブライトコプフ版はちょっと古いので準原典版とも言うべきでしょうが、20世紀前半の名ピアニスト、フレデリック ラモンドによるトリルの分解や右ペダル指示があり、運指もリストの伝統に則ったものですので、一見の価値ありです。

実用版として流布しているもののうち、手に入れやすいのは全音出版社からも出ているトーヴィー=クラクストン版です。英国の音楽学者であるトーヴィーが編集に加わり、ベートーベン演奏とはこうあるべきとの理屈が細かく述べてあります。しかし、その割には楽譜は意外と簡素で、トリルの分析や運指も十分とは言えません。

実用版として有名なものにシュナーベル版(伊クルチ社)があります。シュナーベルは何と言ってもベートーベン演奏で一時代を画した人で、ソナタ全曲演奏の録音を初めて行った人でもあります。SP時代、LP時代、CD時代と、カタログに載り続けています。また、作曲家としても有名です。CDの演奏はともかく、シュナーベル版の楽譜はテクストの正確さ、トリルや運指の親切さ、右ペダルの正確な指示により、強くお勧めでできる楽譜となっています。惜しむらくは、弱音ペダルの指示が無いことと、運指法がやや個性的というか、個人的にはあまり好きではありません。

最後に、名ピアニストにして教育者 アルフレッド コルトーが推薦する実用版楽譜として、名作曲家にしてピアニストのアルフレード カゼッラ校訂の伊リコルディ版があります。これは本当に素晴らしい楽譜です。他のものにない特長として、右ペダル(ダンパー)、左ペダル(弱音)の指示が全曲に渡って繰り広げられていることが挙げられます。運指やトリルの解釈も適切で、この楽譜を辿って指示通りに弾いていると、自分が名ピアニストになったかのような錯覚すら覚えます。ただ、テクストはやや古く、所々でヘンレなどとの相違がありますので、原典版楽譜との併用はやっぱり必要です。

結論を言いますと、伊リコルディのカゼッラ版を主に、ペータースのアラウ版を従に参照すると良いと思います。一種類の楽譜だけ、と言うことであればクルチ(シュナーベル)、ブライトコプフ(ラモンド)のどちらかが良いでしょう。良き指導者に細かく指示されるのでなければ、ヘンレ、トーヴィーはやめたほうが良いでしょう。

現代ピアノの性能を最大限に発揮できるベートーベンのピアノソナタが音の貧弱なフォルテピアノで構想されたことには驚きです。現代では、ベートーベン自身が想像しなかったであろう、ダイナミックで叙情的な演奏が繰り広げられています。カゼッラやシュナーベルのような作曲家兼ピアニストにより、現代ピアノに合うように再創造されたからでしょう。

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