ピアニストいろいろ

先日のブログでベートーベンのピアノソナタのことを書きましたところ、ケンプファンの眼科の先生から連絡をいただきました。眼科医で、ピアノを弾き、かつウィルヘルム・ケンプのファンという、なかなかに見出しがたい類似性ですが、それが判るというのは、ネット社会ならではのことです。

今日は26日ですので、ベートーベンのソナタ26番「告別」を弾きました。この曲は本当に面白くて、1楽章が「さようなら」という歌のあと、馬車が行きつ戻りつ去っていく情景、2楽章が「不在」ということで、いなくなってさみしいなあという気分に満ちており、3楽章が「再会」とのことで、「あっ、帰ってきた!遠くに馬車が見えるぞ!」というところから始まり、パンパカパ、パンパカパと勢いよく馬車が帰ってきます。とてもユニークでキュートな曲です。

この曲を弾いていると、19世紀初頭のヨーロッパの気分がよく味わえます。技術的にもさほど困難ではありません。チェルニー40番がきっちり弾けたら大丈夫でしょう。

この曲は標題音楽ですので、ベルリオーズ幻想交響曲やリストの交響詩などとならぶ、ロマン派の音楽です。ベートーベンは古典からロマン派、さらにはより現代的な楽風と、とても幅広い表現力を誇っており、いくどトライしても飽きることが無く、新しい発見があります。21世紀に生きる我々にも喜びを与えてくれる、偉大な存在ですね。

さて、ウィルヘルム・ケンプですが、1895年に生まれ1991年に没した、20世紀を代表するピアノの巨匠です。1960年代に何度も来日いたしましたので、小生も何度か実演を聴いたことがあります。また、非常にレパートリーが広く、録音にも熱心でしたので、未だにCD演奏家としては現役です。

戦後の高度成長期、世界的に注目を集めたのは、アメリカとソ連のピアニストでした。1960年ごろ、「タイム」誌が選んだ5大ピアニストとは、アルトゥール・ルービンシュタイン、ウラディミール・ホロビッツ、スビャトスラフ・リヒテルルドルフ・ゼルキン、ロベール・カサドジュでした(記憶が正確であれば)。

今月号の「モーストリークラシック」誌はピアニスト特集のようですが、過去のピアニストランク一位はホロビッツ、2位アルトーロ・ミケランジェリ、3位リヒテル、4位ルービンシュタインと相変わらずのメンバーが並んでいます。

タイムにしろMCにしろ、スポンサーの意向を無視して記事は書けません。過去も現在も、マスコミ、あるいは興行師が売り込みたいピアニストはほぼ同じということがわかります。

ケンプやアルフレードコルトーなどは、そのようなところとは無縁のピアニストです。しかし、少なくとも小生が聴く限り、実力は上記ピアニスト以上のものがあります。

第二次世界大戦中、ヨーロッパにとどまって音楽活動をし続けたピアニストは、ケンプ、コルトー以外でも、ギーゼキングバックハウスなどいますが、戦勝気分に湧くアメリカの音楽界から冷たくあしらわれました。対して、ナチスの迫害から逃れたユダヤ人ピアニストは、国中の支持を集めたことでしょう。そのような政治的背景が、タイムのピアニスト番付に影響を与えなかったはずがありません。

ケンプの良さは、ドイツ音楽の伝統に即して現代的な表現を加味し、広大なレパートリーを努力で物にした点にあるでしょう。ベートーベンのソナタ全集を2回も録音したのは、ケンプ、バックハウス、アラウ、ブレンデルなど、少数に過ぎません。

ケンプはシュナイダーハン、メニューインと組んでバイオリンソナタ全曲を2度録音、フルニエと組んでチェロソナタ全曲を録音、シェリング、フルニエと組んでピアノトリオ全曲録音、更には、小品集や変奏曲も録音しており、まさにベートーベンのピアノ曲をほぼ制覇した、最高権威といえましょう。ただ、惜しいことに、ディアベリ変奏曲は録音がありません。

ケンプの演奏では、あたかも作曲家が直接語りかけてくるかのように、音楽が身にしみます。対して、ホロビッツルービンシュタインでは、演奏家の方が主人であるかのようで、癖の強い演奏に聴こえます。たとえば、ベートーベンの熱情ソナタで3人の演奏を聴き比べていただくと、いわんとするところがお分かりいただけると思います。

ワルトシュタインソナタでも、ケンプが3人中トップに来ます。3楽章のオクターブグリサンドを後2者は弾けていません。多分、練習する時間がなかったか、あるいは、ピアノの問題かもしれません。

オクターブグリサンドは手が大きくないと絶対に無理で、アシュケナージバックハウスは多分手が小さいのでしょう。ホロビッツも意外と小さいのかもしれませんが、ルービンシュタインは12度届いたそうです。ここのところはアラウ、ギレリス、ポリーニ、それにケンプが模範的演奏です。

ケンプの名盤は数限りないですが、めずらしいところでは、バッハの小品集、および、ショパン作品集を挙げたいです。

バッハはケンプ自身の編曲による演奏です。ブゾーニ編曲にくらべより平易で、かつとても美しいものです。全音から楽譜が出版されていますので、是非一度参考にしてみてください。

ショパンはケンプにしてはめずらしいレパートリーですが、CD2枚にソナタ2曲、即興曲全曲、などなど、LPでは3枚分の演奏が記録されています。ケンプらしい質実剛健ショパンです。私はショパンの本当の姿はこのあたりにあるのでは・・・、と思っています。


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