私は1976年(昭和51年)の6月から眼科医としての生活が始まり、最初の1年は阪大眼科での初期研修医(当時は研修医は初期のみ)、その後2年は近大眼科へ赴任しました。眼科では最初の2ヶ月(4、5月)はすぐ上の学年の先生についていろんなことを教わるのですが(オーベン=ネーベン)、私は外科の研修医から6月に眼科へ転じた関係ですぐ上の学年の先生がおられず、いわゆるオーベンになっていただいたのは、その頃助手として赴任先から帰ってこられたばかりのT先生でした。T先生は阪大眼科歴史上最も有名になられた先生ですので、眼科関係者なら知らない人はほとんどおられないでしょう。T先生にオーベンをしていただいたことは私の密かな自慢です。羨ましがられる方も多いことでしょう。
そんな関係で、当然のごとく、私は網膜剥離を専門とすることにいたしました。私が近大眼科で初めて執刀した症例も白内障ではなく、網膜剥離でした。当時、網膜剥離は冷凍凝固+バックルの時代で、手術のコツはいかに適切な位置にバックルを縫い付けるかということでした。バックルの中央から周辺側に裂孔が位置するように上手に縫い付けると、一晩の安静により網膜剥離が復位いたします。
初執刀の患者さんを翌日回診で診察されたO教授は「おっ、ひっついてるで」とおっしゃいました。自分で確かめると、確かに網膜剥離は完全に治っていました。ビギナーズラックということもあるでしょうが、とても嬉しかった気持ちが忘れられません。
その後も、網膜剥離の手術をこなす日々が続きました。近大で手術を直接ご指導いただいたのは、当時助教授をされていたH先生です。H先生はぶどう膜炎がご専門でしたが、眼瞼、角膜から緑内障、網膜までなんでもこなされる先生で、その後の私の眼科医人生に大きな影響を与えていただきました。そのH先生は今年、鬼籍に入られました。心よりご冥福申し上げます。
近大での後半の1年では、黄斑円孔網膜剥離の治療に心を砕きました。黄斑円孔は文字通り黄斑に円孔が開いて網膜剥離をきたす病気です。最近は剥離に至るまでに治療してしまいますので滅多に見かけませんが、当時は近視人口の多い日本では結構多かったのです。
バックルを黄斑部に縫い付けるのは至難の技です。そこで、当時、国立名古屋病院におられたA先生がご考案された「黄斑バックル」を使うことにしました。黄斑バックルをうまく使うと、円孔の周りを凝固することなく網膜剥離が治り、結構良い視力が出ることがわかりました。A先生も今年鬼籍に入られました。ご冥福をお祈りいたします。
裂孔を閉鎖すればなぜ網膜剥離が治るのかという疑問が生じ、網膜色素上皮による水吸収作用について研究することにいたしました。1985年ごろに海外のラボで研究した結果はいくつかの論文にまとめてあります。
網膜剥離手術は開業してからも日帰りで行っております。しかし、開業して10年ほど経った頃からバックルに代わって硝子体手術がメインとなってきました。現在では、よほどの難症例でなければ、硝子体手術(+光凝固+ガス)のみで手術が完了いたします。縫う操作が少ないので時間も短縮されました。
年に20例くらいの網膜剥離手術がありますので、最初から積算すると1000例近くの網膜剥離を手がけたことになります。方法は全く変わってしまいましたが、裂孔閉鎖というコンセプトは同じです。
昨日も網膜剥離の硝子体手術を1例行いました。「最後の症例になるかも」と思いながらも、なかなか網膜剥離の旅は終わることがありません。
ST