古墳時代

大阪南部には大きな古墳がいくつもあります。有名どころでは大仙古墳や応神天皇陵ですが、堺市南区近くの築山も実は古墳ではないか疑惑があったりして、いわば古墳だらけです。

 

大仙古墳がある百舌鳥古墳群と応神陵のある古市古墳群大和川の南でほぼ同緯度にあります。大和川古墳時代、今のように大阪平野を横切って東西に流れていたわけではありません。実はこの頃(5〜6世紀)、今の大和川より北は上町台地を除いて内海で、古墳はこの海岸沿いに並んでいたと考えられます。

 

もっとも大きい大仙古墳は「仁徳天皇陵」として宮内庁が管轄していますが、日本書紀に記載されている記事と古墳の実年代が一致しませんので、日本書紀の記事が粉飾と考えられます。

 

堺市南区陶器山では、古墳時代に須恵器という土器が作られ、全国に普及しました。これらを製作したのは百済の工人で、古墳時代韓半島から大挙して移住してきた人々でした。663年に新羅ー唐の連合軍に滅ぼされた百済は、古墳時代、倭(ヤマト)王権と密接に関係していました。

 

4世紀、百済近肖古王(余句)から倭王旨に贈られた七支刀が奈良県天理市石上神宮に保管されていたことや、6世紀、百済武寧王(余隆)から倭の継体天皇(男弟王)に贈られた鏡が和歌山県橋本市の隅田八幡宮で見つかったことなどがその証拠です。

 

大阪弁百済語に似ていると言われます。一方、東京弁新羅語に似ているそうです。7〜8世紀にかけて百済より後に韓半島から逃げてきた新羅高句麗の人々は、関東地方に入植したからです。関西は百済に占拠されていたからですね。

 

大阪や関西の人々は百済の血を色濃く受け継いでおり、工芸、芸能、学芸に優れています。一方、関東では武人が多く輩出し、後の武家政治につながりました。

 

HS